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2010.07.17 (Sat)

緊張の極みで

 演奏の本番と云うのは、人生の試練のある意味疑似体験の場である。

 試練も本番も臨むのが嫌であれば、確かに逃げることは出来る。

 だが、逃げてばかりでは先に進めないし、逃げっぱなしでは結局誰からも認められないまま人生を送らざるを得ない。

 それでもいい、と言い張りたい人は確かにいるだろうが、ギターをはじめとした表現をするための道具を扱うことを人生の友とした途端、そのような言い逃れはある意味不可能になるのである。

 勿論、強行に発表会をはじめとした本番に出ることを拒むことは出来る。

 だが、それではいったい何のために先生に習ってまで練習するのか、と問われればただ上手になりたいから、と彼は答えるかもしれない。

 とは云え、頑なに発表会を拒否する人であっても、楽器の練習をしていると云う噂が家族から親類縁者に知れ渡る頃には、彼らからの演奏希望が殺到するものである。

 仮に親戚の叔父さんが遊びに来て、父親と酒を飲んで、「おめえギター弾いてるんだって。なにか弾いてみれや」と云うリクエストを我々は断ることが出来ないだろう。何故なら常識的な我々はそれを拒めば、酒宴の雰囲気が壊れて険悪になることを知っているし、それを壊すことを本意としていないと云うことも充分知っているからである。

 だから我々は、不承不承親戚の前で本番を向かえることになる。

 つまり、どういう環境であれ、我々は誰かに対して表現することを常に要求されるのである。

 それが社会性である。

 そう云うことが根っから苦手な人は、出来るだけ人前に出なくてもいいような仕事をするようになるだろうし、生来の内向的な人であっても、何故か表現行為に魅了されてそれを自分でもしたいと思うような人であれば、何とか克服する術を身につけるように訓練するより他にない。

 いずれにせよ、人前で表現することを目的とすることを、つまり音楽などであるが、学ぶと云うことは、不特定多数の前で自分の意見や意志を伝えると云うことの訓練に他ならない。

 勿論、それが高じれば、それ以上の素晴らしい世界を見たくなるだろうし、追求したくなるだろうが、それ以前に、とにかく自分の意志を音として表現したいと思う人は、根性と度胸を据えて、なんとか未知の人の前でいつもどおりの精神状態で演奏することだけを、考えるべきである。

 何を、どう考えることができれば平常心になれるのか、はおそらく誰にも分からないだろう。

 世の中には、分からないことが多い。

 例えば、宇宙のこと、他人の心の中のこと。

 それらは考えて分かるものではない。

 しかし自分の心の中のヘタレな部分を見極めることは、時間をかければなんとか解決できる糸口程度は見付けることが出来る。

 勿論、自分の嫌な部分を見極めたくないと云う気持ちは分かるが、その気持ちを抑えれば自分の駄目な部分を見ることができる。

 つまり問題は、自分の本心をしっかり見ようとする気持ちがあるかどうか、と云うことが大きな問題である。

 少なくとも僕自身にはそれが大切なことだと思われる。

 他に人には他の人の理由があるだろう、明日生徒の数名があるオーディションを受ける。
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テーマ : ひとりごと - ジャンル : 心と身体

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