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2010.05.21 (Fri)

外国語を聴きながら

 外国語を聞くのは好きだけど読み書きが苦手な僕は、外国語で書かれた詩や小説やCDの解説文などさまざまな外国語で書かれているものを一度日本語訳した文章を通して読む習慣を当たり前のように身につけてしまった。

 だから例えば頁の左側にスペイン語やイタリア語で書かれた歌詞があって、右側にその詩を日本語訳した文が載っているような場合、殆ど右側だけを読んで歌の内容を理解したつもりになっていた。

 その態度は、文はそれが示す内容が分かればよろしい、と云うような例えば新聞の記事などの散文を読むのと同じだと云えるだろう。

 ところが多くの文章と云うものは、ただ中身が分かればいいと云う以上に、単語の選択や文体は勿論のこと話しの構成やレトリックなどのにまで気を配って作家の感じた感動を余すところなく書かれることが殆どである。

 だから内容さえ知ればよろしいと云う考えで安易に翻訳文を読んで内容を理解したつもりになると云うのは、それらの多くをことを完全に無視する態度なのである。

 と云うことに、最近僕は改めて気づかされた。

 それは最近DVDで映画を字幕なしで見るようになったことばかりでなく、さまざまな機会で耳にする演奏でとても段取り臭い演奏を聴くことで、否応無く気づかされたのかもしれないが。
 
 例えば、静かにギターのピッツィカートの音が聴こえ始めて、我々の期待は次にどんなメロディが出てくるのかと云うことに集中する。

 そこでキューバの子守唄が聴こえてくるならば我々はとても満足するのだろうが、とにかくピッツィカートを弾いて、とにかく次の音を弾いて、再びピッツィカートを弾いて、え~っとその次はいったいなんだっけ?と云うような演奏は、まるで先が読めてしまう推理小説を読むような味気なさを感じるのである。

 それは別に饒舌な演奏をすればよろしい、と云うことでは決してない。

 そうではなくて、演奏をする人が、身体を使って音を生み出して、その音が主人公となっていろいろなドラマを経験してひとつの、或いはいくつかの物語を体験すると云うようなことをどれだけ楽しむことができるか、と云うことが大切なのである、と思うのである。

 こんなことは、誰でも知っていることだから、書いてしまえば極在り来たりのことしか書けないものである。

 でも、それを感じないような演奏をする人が多いのは、いったいどういうことか。

 おそらく、それは彼が何度も何度も弾き過ぎて彼の中で新鮮みがとうに失せてしまったからだろう、と思われる。

 始まりがどうで、次に何が起こって、どんなクライマックスを迎えて音楽が終わるのかをすべて知り尽くしてしまったから、もうどう考えても新鮮みや期待感を維持することができないと云うのは、よくわかることだ。

 多くの映画や小説や絵や音楽でさえも、何度も何度も繰り返して鑑賞し尽くしたら、暫くそれらとかかわり合いになりたくないと思うことと同じである。

 でも、もう一度知り尽くしたと思われるものを、新たな目と耳と感性で鑑賞し直してみれば、また新しい魅力に気がつく場合があると思う。

 これまで気がつかないことに気がつくようになるためには、これでよりも我々の持つセンサーをより敏感に設定するしかないのである。

 つまり知りたいと思う気持ちをさらに強く持つと云うことである。
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