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2010.04.21 (Wed)

練習好きになるための極意

 我々は誰かの発した言葉や、書かれた文字を自分の都合のいいように理解しようとする傾向がある。

 それは、我々は我々が知っている知識や知恵や考え方などだけを通してのみ世界初めさまざまなことを理解するからである。また、世界にはさまざまな情報が溢れている。だがそれらのすべてを我々は理解することができない。そのために我々は我々の知りたいと願う情報だけを選別して知ろうとするものである。

 以上のことから、我々は我々の都合のいいように情報を理解しやすいと云う傾向を持つようになる。だから言葉や文字の内容を歪曲してまで自分にとって都合のいい情報を読み取ろうとすることもある。

 例えば、見るからに苦しそうな表情と手つきと身体の動きと出てくる音ばかり出し
て、しかも演奏後に実に後味の悪そうな顔をする人がいたとする。

 そのような人に「音の間違いは気にしないで、もっと音楽と楽器を弾くと云うことを楽しんでみたら」などと云うことがある。それは、音楽の本質は、音を間違わないようにすることでも、先生に叱られないようにすることでもなく、自分が奏でる音を聴い
て、また実際奏でると云う行為を通じて、ありありとした、また生き生きとした喜びと楽しさを感じることが何よりも肝心なことだからである。

 ところがそれを聞いた別の人がその僕の云った「間違えてもいい」と云う言葉を、まったく練習しなくてもいいのだ、或いは弾けなくてもいいのだ、などと勝手な思い込みをするための呪文として理解してしまっては、彼は練習の大切さも、演奏すると云う行為の意味も、自分の向上心さえも見失うことになる。

 何故なら、間違ってもいいと思う心は、きちんとした練習をさせなくなるだろうし、楽器を弾くことに捧げていた情熱の幾分かは別の楽しみごとに向けられるだろうし、間違ってもいいと云う存在である(実際は違うのだが)先生の小言に接することが多くな
り、それらの結果音楽に対して、楽器に対して、上手になりたいと云う思いに対しての熱意が萎縮してしまうからである。

 我々が彼らに云う「間違ってもいい」と云う言葉には、何よりもまず、彼らの心を解放して、楽器の演奏をすると云う行為の中に存在する楽しさと素晴らしさを実感することが必要だと云う意味があるのだ。

 勿論、その道は容易いものではない。それどころか山と谷と壁と行き先不明の分かれ道ばかりが待ち受けているし、その道の到達点はいっこうに見えないものである。

 だから我々も彼らも、いとも簡単に挫折するものである。

 そのため諦めたくないと云う強い思いを持つ我々の多くは、過去を振り返り自分の歩みを確認することでこれまでの自分のなした行いに満足感を得たり、仲間と手を握り合って互いに励まし合うことでやる気を奮い立たせたりするようである。

 そんな風にしてでさえ、長い期間練習をし続けることができる人々は、とても素晴らしい人々である。それ以外の多くの人々は、いろいろな理由を見つけたりして、挫折するからである。

 とは云え、そのように素晴らしい人でさえ、自分を褒めたり、過去を振り返ったり、励まし合ったり、と云うようなことをしなければ、または何かしらかの発表する場を設けなければ意欲を維持するのは難しいことである。

 常に発表の場を想定できる人々はもの凄く幸福である。

 だが多くの人々は、発表する場を確保することさえ難しいだろう。

 では、そのような人が意欲を維持しようとするときに、何を頼りにすればいいのだろうか。

 一番いいのは、意欲を奮い立たせたり維持しようとしないことである。

 それはどういうことか。

 それは、練習が、音楽が、日常になればいいと云うことである。つまり歯を磨いて顔を洗って、テレビを見て、ゲームをやって、楽しみの本を読んで、と云う諸々のことと同じように、特別に「しなければならない」と云う思いでなく、日常の行いとして練習すればよろしいと云うことである。
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